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第1部 (1) 真っ青な作業着は、ごみ箱に捨てた。【MJの本質・未完の国産旅客機】

2022年4月18日 05:00(2022年4月21日 06:36 更新)
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朝の光を浴びながら悠々と初飛行するMRJ=2015年11月、愛知県小牧市で、本社ヘリ「まなづる」から

朝の光を浴びながら悠々と初飛行するMRJ=2015年11月、愛知県小牧市で、本社ヘリ「まなづる」から

 ロッカーに残っていた作業着を手に取ると、そのままごみ箱に放り投げた。空のように真っ青な作業着。左胸に三菱重工業(東京)のシンボルマーク「スリーダイヤ」が赤い糸で縫い取られていた。持ち帰らなかったのは、会社人生にきっぱりと別れを告げたかったからかもしれない。

 オフィスの窓からは、名古屋空港(愛知県豊山町)から飛び立つ飛行機の様子を見ることができる。陽光を反射した機体が空で輝く。「きれいだなあ」

 幼いころから飛行機が好きでたまらなかった男にとって、国産初のジェット旅客機「MRJ(三菱リージョナルジェット、現スペースジェット)」の開発を主導するのは、夢のような仕事だった。

 開発の始動から11年後の2019年3月、男はその夢舞台から降りた。仲間の拍手に見送られながら、自分の車に乗り込んだ。

「クビにしてください」

 飛行機開発の最高責任者で、1000人以上のチームを束ねるチーフエンジニア。三菱重工業(東京)の威信をかけたMRJプロジェクトの現場トップとして、6年間にわたりその職を務めた岸信夫(63)は、定年退職を迎えた。

 「明日から、もう会社に来ないんだ」とは思ったが、寂しさは感じなかった。何も感じないように自らの感情を封印していたのかもしれない。「必死にやった。それなのに…」。今もまだ、心の整理はついていない。

 退職する1年前の2018年1月。開発子会社「三菱航空機」(愛知県豊山町)の副社長も兼務していた岸は、当時の社長、水谷久和と同社の会議室で向き合っていた。

 水谷は静かな語り口でこう切り出した。

 「チーフエンジニアを退き、副社長に専念して」

 三菱重工に1982年に入社し、戦闘機開発に長年携わってきた岸は「戦闘機のエース」として、常に開発の最前線にいた。普段は感情をあまり見せないが、この時は声を荒らげた。

 「そんな格好で残るなら意味がない。副社長を含めてクビにしてください」

 当時、MRJは設計が最新の安全基準を満たせないとして、量産初号機の納入を2年延長していた。納入延期は5度目だ。

 その頃、水谷は本紙などのインタビューに「今の見通しでいけばぎりぎりいける」と公言し、20年半ばと設定した新しい目標の達成に自信を見せていた。ただ、それは、新体制への刷新とセットだった。

 開発の遅れを取り戻すため、陣頭指揮を執っていた岸を外すことで、変革を印象付けたかったのだろう。

技術者苦悩 心の整理つかず

 なだめられて副社長職にとどまったが、開発責任者にはボンバルディア(カナダ)などの海外メーカーで航空機開発の経験が豊かなアレクサンダー・ベラミーが新たに任命された。

 岸は振り返る。「期待に応えることができなかった。新風を吹かせられなかった」

 チーフエンジニアの重圧は想像以上だった。世界の航空史に残る零式艦上戦闘機(ゼロ戦)を世に送り出した三菱重工の大先輩になぞらえて、岸を「MRJの堀越二郎」と紹介するメディアもあった。

 性能効率を極限まで引き出し、1グラム単位で重量軽減にこだわるなど技術を追求した堀越は、憧れの存在だった。「先輩に恥ずかしくないようにしなくては」と、いつも意識していた。

 「メード・イン・ジャパン」を掲げ、日本の航空機産業の発展を託されたMRJ。戦闘機と旅客機の違いはあるが、国の期待を一身に背負うという部分でゼロ戦と根っこは同じだった。

 プレッシャーへの不安を打ち消そうと、とにかく仕事に打ち込んだ。平日も休日も問わず、現場にいた。「家族と食事をする時間なんてありませんでした」

 動いていないと重圧がのしかかってくる気がして、ジム通いも始めた。でも、いつも気付くと空を見つめながら、MRJのことばかりを考えていた。

 チーフエンジニアに就任してから4度の納入延期をした。岸も、周囲のエンジニアらも決して諦めず、手を抜いてこなかったはず…。MRJから離れて3年がたった今も、岸の頭の中で堂々巡りは続いている。

 「どうしてできなかったのだろう」(敬称略)

開発費1兆円の巨大プロジェクト

 国産ジェット旅客機の開発構想が動き出したのは、戦後初の国産旅客機「YS11」が初飛行してから41年後の2003年。経済産業省が小型機計画の開発主体に三菱重工業を選び、当初は「MJ(三菱ジェット)」との呼び名で30~50席の機体開発を目指した。

 構想を具体化する中で、北米やアジアの地域路線での需要増を見込み、座席数を70~90席に変更。08年3月に全日本空輸から世界初の25機の発注があり、「MRJ」の名称で事業化が決定。三菱重工子会社の三菱航空機が設計を担い、90席級の初号機の納入は13年後半を予定した。

 空気抵抗を小さくする機体設計と効率を高めた米社製の新型エンジンを採用し、燃費性能は従来のライバル機に比べて2割向上。広い客室スペースを売りに、国内外航空会社などから最大447機(現在は287機)を受注した。

 だが、設計の変更と商用化に必要な「型式証明」の取得遅れなどで開発は困難を極め、初号機の納入は6度も延期。国費500億円を含む約1兆円の開発費を費やしたが、三菱重工は新型コロナウイルス禍で機体需要が見通せないとして20年10月に「いったん立ち止まる」と3年間の開発中断を発表。現在も再開の見通しは立っていない。

 三菱重工業が日本初の国産ジェット旅客機開発を凍結して、1年半が過ぎた。開発に携わった人々の視点から、当時の現場で何が起きていたのかを探る。

 航空機の名称は「MRJ」から「SJ(スペースジェット)」へと変わった。だが、開発当初から変わっていないのが、航空機の「戸籍」として機体ごとに付与される登録記号に含まれたアルファベット「MJ」の2文字。「三菱ジェット」の頭文字であり、プロジェクトの象徴だ。その本質に迫る。

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