岐阜プラスチック工業 大松利幸会長(71) 起業の厳しい現実糧に

2018年5月2日 05:00

【若者へ】世の中は変化し続けており、可能性には限りがない。失敗を恐れずに挑戦してほしい。

 「これからは多角化の時代や。おまえも何かビジネスをやってみろ」。1975(昭和50)年、岐阜プラスチック工業の社長室。入社3年目だった大松利幸は、父で社長の幸栄(こうえい)からこう指示を受けた。石油危機で世間の消費が低迷し始め、社としても事業の柱を増やしていた時期だ。

 幸栄は農家の長男ながら「事業で社会に貢献したい」と、まだ珍しかったプラスチックの将来性に賭け、裸一貫から起業。精力的に日用品から物流資材まで多くの分野に進出していた。

 仕事一筋の父を見て育った利幸は「経営は自分の性格に向いていない」と、家業を継がず、文筆業の道へ進みたかった。だが学生時代に父から一喝され、葛藤を引きずりながらも社の取引先の企業で3年勤め、父の元に戻っていた。

 周囲からの期待も感じる中での父からの指示に、「自分にもやれるところを見せたい」と、あえてプラスチックとは別の分野を選ぶ。新会社をつくり、翌年から、車庫や物置として簡易に組み立てられる強化コンクリート板製品の製造・販売を始めた。

 意気揚々と乗り出した新事業だったが、現実は厳しかった。各地に出した展示場をかけ回り、売り上げこそ出たが、それを上回る設備投資や人件費で赤字が増加。作業環境の厳しさに辞める社員もおり、求人に奔走した。生まれたばかりの子どもに会う時間も削り「何のために働いているのか分からない」と苦しんだ。

 3年半が過ぎて廃業が決まり、社長室に呼ばれた。激しい罵倒も覚悟した利幸に、穏やかな笑みをたたえた父は一言だけ言った。「勉強になったやろ。本業に戻ってしっかりやれ」

 自分に欠けていたのは何か。経営者は、企業を成長させるのはもちろん、世の中に貢献し、社員とともに満足感を共有できないといけない-。今までは肌身で実感できなかった父の信念を、利幸はこの時を境に、常に思い返すようになった。

1988年4月、社長交代の記者発表会での大松氏=資料映像から

1988年4月、社長交代の記者発表会での大松氏=資料映像から

 88年5月、幸栄が63歳の若さで急逝する。社長職を利幸に譲り、会長に退くことを前月に発表していたばかりだった。悲しみと落胆を感じつつも、利幸に会社を背負う覚悟は固まっていた。「独自の技術や新製品を生み出さねば、生き残れない」。かつて社員と寝起きを共にした父がそうしたのと同じく、現場を回り、一人一人の社員たちと意見を交わしあった。

 環境問題に関心が高まると、再利用でき二酸化炭素削減にもなる植物由来のプラスチック容器を2005年に開発。コンビニの食品のトレーに使われるようになる。社員の「もっと軽くて丈夫な素材はないか」との発想からは、ハニカム(蜂の巣)構造の樹脂素材「テクセル」が誕生。09年に量産化に成功し、物流資材や自動車部品、家具など多くの用途で可能性を広げている。父が400億円にまでした会社の年商は今、2倍超の900億円になった。

 今年3月、利幸は社長職を次男・栄太(41)に譲り、会長に就いた。父の死に涙したあの日から30年。利幸は「自分がオヤジに追いつけた、とは思っていない。でも、その遺志を引き継ぎ、2代目としての役割を終えることができた」と振り返り、こう続けた。

 「社会に貢献し、社員と幸せを分かち合う-。そんな“バトン”を継承していってほしい」=文中敬称略(小倉貞俊)

おおまつ・としゆき

 1946(昭和21)年、岐阜市生まれ。岐阜高、慶大卒。三菱油化(現三菱ケミカル)を経て73年に岐阜プラスチック入社。84年副社長、88年社長。2018年3月から会長。岐阜商工会議所副会頭、県選挙管理委員長なども務めている。


 

岐阜プラスチック工業

 本社は岐阜市神田町で、1953(昭和28)年に設立。食品包装容器や日用雑貨、産業資材、工業部品などを扱う、全国有数のプラスチックの総合メーカー。昭和期はリスをブランドマークにして親しまれた。リスパックなど子会社6社を含めたグループ全体では、資本金22億円、従業員2041人、売上高853億円(2017年3月期)。


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 岐阜県内企業のトップたちは、社業の礎を築いたり、飛躍させたりするまでに、どんな苦難の日々を歩んできたのか。次世代へのメッセージとともに紹介する。