(1)柿安本店 挑んだ。新たな歴史に

2018年1月1日 05:00

「覚えとけよ。輝いていればもう一度チャンスがある」

柿安の原点・牛鍋のおいしさを今に伝えるすき焼き=三重県桑名市の柿安料亭本店で

柿安の原点・牛鍋のおいしさを今に伝えるすき焼き=三重県桑名市の柿安料亭本店で

 新しい時代の到来に耳をそばだてていた男がいた。三重県で柿の行商をなりわいとしていた赤塚安次郎(やすじろう)(1835~1914年)。「柿の安っさ」と呼ばれていた男はある日、うわさを聞く。東京で牛鍋屋が繁盛しているそうな-。

 「牛鍋食はねば開化不進奴(ひらけぬやつ)」。江戸末期から明治期の戯作者(げさくしゃ)、仮名垣魯文(かながきろぶん)は「安愚楽鍋(あぐらなべ)」で維新直後の世相をこう記す。牛肉とネギを鍋で煮た牛鍋。庶民があまり口にしなかった肉だったが、一転、食わない者は流行遅れという激変ぶり。文明開化の波は日本の食も変えようとしていた。安次郎も上京し、この味を舌で確かめたと、今に伝わる。

明治初期に牛鍋屋を開いた赤塚安次郎=柿安本店提供

明治初期に牛鍋屋を開いた赤塚安次郎=柿安本店提供

 安次郎は1871(明治4)年、東海道の宿場町、三重・桑名で、当時珍しい牛鍋屋と精肉販売を始めた。屋号は「柿安」。今に続く「柿安本店」の源流だ。店は評判を呼び、柿安の礎を築いていく。

 戦後は高度経済成長に乗り、1967(昭和42)年、名古屋駅前にすき焼き店を開店。4年後、ついに名店がしのぎを削る東京・銀座に進出を果たす。創業100周年の年だった。昭和、平成へとさらに店舗を拡大した柿安。だが、順風だった会社は突如、苦境にさらされる。 2001年9月10日だった。国内初の牛海綿状脳症(BSE)に感染した疑いがある牛が見つかった。メディアには連日、「狂牛病」の文字が躍った。

 当時、8割を牛肉関連の事業で稼ぎ出していた柿安への打撃は甚大だった。和牛全てが危険と思われ、レストランから客が消えた。翌年、創業以来初の赤字に転落する。

 存亡の機に立った柿安。「リストラすべきだ」。外から厳しい声が上がった。だが、従業員1300人の生活がかかっていた。01年、社長に就いたばかりの5代目、保(83)。「見えない出口に眠れない日々が続いた」。後年、この時のつらさを自著で吐露している。

 現場も揺れた。柿安ブランドの品質を支えてきた桑名市の牛肉加工工場。「さばく肉がなくなっていく。一気に仕事が減る怖さがあった」。勤続40年余の林正孝(66)は述懐する。牛肉の加工を一部、豚肉に切り替え、窮状に耐えた。

 保は大半のレストランの閉鎖を決断する。中には東京進出を果たした銀座店もあった。閉店の日。レストラン部門の責任者だった息子、保正(54)はこの日の父の言葉を忘れない。「残念やな。ただな、覚えとけよ。柿安が輝いていればもう一度チャンスがある」

 それが秘めた決意だったかのように、保は「攻め」に転じる。今や「デパ地下」の代名詞となった総菜店の拡大に打って出たのだ。

 勝算はあった。BSE危機の3年前。柿安は既に総菜専門の1号店をオープンさせていた。「老舗のイメージ低下になるのでは」。当初、心配する声もあった。だが時はバブル崩壊後。社用族は減り、レストラン事業は伸び悩んでいた。一方で、働く女性が増え、「食」を取り巻くニーズは変化していた。種をまいていた、この総菜事業を柱に育てることに社運を懸けた。

 その場で調理し、見た目も華やかな総菜を提供するスタイル。瞬く間に忙しい女性らの心を捉えていく。雇用も守り抜き、わずか1年でV字回復を果たした。

 まもなく創業150年。社長となった保正は、老舗ののれんにしがみつく姿勢を戒める。柿の行商から異業種に転じた祖先。時流を捉えて危機を救った父。「挑戦してこそ、新しい歴史は生まれる」。6代目は時代の先を見つめている。(敬称略)

柿安本店

 創業は1871(明治4)年11月。従業員は社員、パート含め3442人で、2017年2月期の売上高は約435億円。現在、精肉▽レストラン▽総菜▽牛肉のしぐれ煮などの食品▽和菓子-の5部門の基幹事業を展開する。17年8月現在での店舗数は計362店。「おいしいものをお値打ちに提供する」が経営理念。本社は、三重県桑名市。



 近代日本の幕開けとなった明治維新から今年でちょうど150年。明治期に創業しながら、「ももとせ」(100年)を超えて今も続く会社は0.7%という。あまたの危機をいかに乗り越えてきたのか。そんな企業と人の物語を、決して右肩上がりの時代ではない今こそ、紡ぎたい。未来への道標(みちしるべ)を見いだすために。(この連載は全6回です)

明治こんな時代だった・食

 「文明開化」の代名詞といえば、何といっても牛鍋。幕末、西洋人が多く住んでいた横浜で始まり、広まっていったとされる。東京では1868(明治元)年に初の牛鍋屋が開店した。その後、多くの店ができ、庶民の間で流行。72年には明治天皇が牛肉を試食したことが新聞で報じられ、全国的に肉食が受け入れられていく。

 「近代日本食文化年表」(小菅桂子著)によると、77年ごろには東京の牛鍋屋は550店を数えたというから社会への浸透がいかに早かったかが分かる。

 パン食も急速に広まり、東京・銀座の「木村屋」が74年にあんパンを販売し、人気を呼ぶ。カレーライスやシチューなど今ではおなじみの家庭料理が知られるようになったのも明治期。トマトやキャベツといった洋野菜も普及していくなど、日本人の食卓が大きく変化した。