安次郎は1871(明治4)年、東海道の宿場町、三重・桑名で、当時珍しい牛鍋屋と精肉販売を始めた。屋号は「柿安」。今に続く「柿安本店」の源流だ。店は評判を呼び、柿安の礎を築いていく。
戦後は高度経済成長に乗り、1967(昭和42)年、名古屋駅前にすき焼き店を開店。4年後、ついに名店がしのぎを削る東京・銀座に進出を果たす。創業100周年の年だった。昭和、平成へとさらに店舗を拡大した柿安。だが、順風だった会社は突如、苦境にさらされる。 2001年9月10日だった。国内初の牛海綿状脳症(BSE)に感染した疑いがある牛が見つかった。メディアには連日、「狂牛病」の文字が躍った。
当時、8割を牛肉関連の事業で稼ぎ出していた柿安への打撃は甚大だった。和牛全てが危険と思われ、レストランから客が消えた。翌年、創業以来初の赤字に転落する。
存亡の機に立った柿安。「リストラすべきだ」。外から厳しい声が上がった。だが、従業員1300人の生活がかかっていた。01年、社長に就いたばかりの5代目、保(83)。「見えない出口に眠れない日々が続いた」。後年、この時のつらさを自著で吐露している。
現場も揺れた。柿安ブランドの品質を支えてきた桑名市の牛肉加工工場。「さばく肉がなくなっていく。一気に仕事が減る怖さがあった」。勤続40年余の林正孝(66)は述懐する。牛肉の加工を一部、豚肉に切り替え、窮状に耐えた。
保は大半のレストランの閉鎖を決断する。中には東京進出を果たした銀座店もあった。閉店の日。レストラン部門の責任者だった息子、保正(54)はこの日の父の言葉を忘れない。「残念やな。ただな、覚えとけよ。柿安が輝いていればもう一度チャンスがある」
それが秘めた決意だったかのように、保は「攻め」に転じる。今や「デパ地下」の代名詞となった総菜店の拡大に打って出たのだ。
勝算はあった。BSE危機の3年前。柿安は既に総菜専門の1号店をオープンさせていた。「老舗のイメージ低下になるのでは」。当初、心配する声もあった。だが時はバブル崩壊後。社用族は減り、レストラン事業は伸び悩んでいた。一方で、働く女性が増え、「食」を取り巻くニーズは変化していた。種をまいていた、この総菜事業を柱に育てることに社運を懸けた。
その場で調理し、見た目も華やかな総菜を提供するスタイル。瞬く間に忙しい女性らの心を捉えていく。雇用も守り抜き、わずか1年でV字回復を果たした。
まもなく創業150年。社長となった保正は、老舗ののれんにしがみつく姿勢を戒める。柿の行商から異業種に転じた祖先。時流を捉えて危機を救った父。「挑戦してこそ、新しい歴史は生まれる」。6代目は時代の先を見つめている。(敬称略)
柿安本店
創業は1871(明治4)年11月。従業員は社員、パート含め3442人で、2017年2月期の売上高は約435億円。現在、精肉▽レストラン▽総菜▽牛肉のしぐれ煮などの食品▽和菓子-の5部門の基幹事業を展開する。17年8月現在での店舗数は計362店。「おいしいものをお値打ちに提供する」が経営理念。本社は、三重県桑名市。
近代日本の幕開けとなった明治維新から今年でちょうど150年。明治期に創業しながら、「ももとせ」(100年)を超えて今も続く会社は0.7%という。あまたの危機をいかに乗り越えてきたのか。そんな企業と人の物語を、決して右肩上がりの時代ではない今こそ、紡ぎたい。未来への道標(みちしるべ)を見いだすために。(この連載は全6回です)