→
法人限定 中日BIZナビ 無料トライアル受付中!

第1部(1)小型車開発、戦前に種【織り上げた夢】

2020年1月27日 05:00
印刷する
鈴木式織機が試作した小型乗用車。世界で売れていた英国の「オースチン7」を手本にした=いずれもスズキ提供

鈴木式織機が試作した小型乗用車。世界で売れていた英国の「オースチン7」を手本にした=いずれもスズキ提供

46歳の鈴木道雄

46歳の鈴木道雄

 梅雨が明け、焼け付くように暑い日だった。「乗ってみますか」。研究主任の鈴木三郎に誘われ、社長の鈴木道雄は、組み上がったばかりの車に乗り込んだ。

 排気量750ccの小型乗用車。工場の周りを2回りして、道雄は満足した表情を見せた。ボンネットは継ぎはぎだらけだったが、エンジンには力があった。

 1939(昭和14)年夏。スズキの前身の鈴木式織機は、自動車の試作を完成させた。浜松ではまだタクシーも少なく、人力車が往来していた。

 道雄が娘婿の三郎に自動車の研究を命じたのは、その3年前の夏。格子柄を自在に織る「サロン織機」が大当たりし、浜松市相生町(現中区相生町)の本社工場が活気に沸くさなかだった。

 インドの紡績工場では、自分と同い年の英国製の織機が使われている-。50歳目前でそんな話を聞き、道雄は「半永久的な寿命がある織機は、いずれ事業の限界が来る」という思いを強めた。好不況の波の激しさにも辟易(へきえき)していた。

 隣の三河では、遠州出身の発明家、豊田佐吉が起こした豊田自動織機製作所が33年に自動車部を設けていた。佐吉の長男で常務の喜一郎が、英国で織機会社の凋落(ちょうらく)を目の当たりにし、自動車に活路を求めた。

 同じ年、横浜では後の日産自動車も産声を上げた。31年の満州事変後、世界から孤立を深めた日本では国産車が待望されていた。

 鈴木は豊田と同じ業界で取引もあり、道雄は佐吉の弟子らと懇意だった。「豊田の動きに刺激されたのだろう」。道雄に関する著書がある法政大教授の長谷川直哉(61)は指摘する。

 喜一郎が大型の乗用車を目指したのに対し、道雄は小型車に狙いを定めた。豊田との資本力の違いもあるが、国民の購買力と、その後の普及を見据えた。

 36年、三郎らは英国の小型車「オースチン7」を1台購入し、分解して研究を始めた。銀行員の初任給が70円の時代に、4000円もした。「同じ道楽なら芸者遊びの方がましだ」。社内は冷ややかだったが、道雄は「事業は10年先を見なくちゃいかん」と意に介さなかった。

 三郎は航空機のエンジンの知識があり、開発に自信を持っていた。しかし、造ってみると、織機の鋳造技術では歯が立たなかった。特にピストンは、満足のいく素材が見つからず、結局は中古のエンジンを集めて溶かしたものを充てた。

 試作車が完成した後のお盆。「うちじゃ、こんなものができる」と、親戚中に見せて回る道雄の姿があった。「豊田や日産を見学したわけではなく、部品もほとんど自家製で、動く車ができた」「われながらあっぱれ」。後の述懐にも達成感がにじむ。

 39年9月、鈴木は可美村高塚(現南区高塚町)に新工場の建設を始めた。今はスズキ本社となっているこの地で、道雄は小型車を生産する決意だった-。後にスズキ会長となる稲川誠一は、道雄からそう聞いたと長谷川に語っている。

 だが、日増しに大きくなる軍靴の音は、それを許さなかった。翌年稼働した高塚工場は砲弾や機関砲の生産拠点とされ、道雄の希望の種は封印された。再び日の目を見るのは、10年以上も先のことだった。

    ◇ 
 スズキは3月15日、会社設立から100年を迎える。時代の荒波の中で苦闘しながらも、「庶民のクルマ」を追求してきたものづくりの源流とは。第1部では社史などの記録や関係者の証言を基に、創業者・鈴木道雄の足跡をたどる。(敬称略、年齢なしは故人)

関連記事

ニュース一覧

PAGE TOP